071-1

 友人宅に置手紙をして平塚を後にし、両親に頭を下げて家に戻った私は、すぐに大手コンピューター会社の中途採用試験に挑み「500倍」の競争から就職しました。
 契約して報酬を確保しました。お金が必要だったからです。

 大手コンピューター会社との契約が満了し、得た報酬で私は神奈川県茅ヶ崎市内に、中高校生向けの学習塾「フレンド学院」を創設しました。
 十代のうちに染みこんだ「判断基準と価値観」がいかに重要か、身をもって知ったからです。

 最初は数名だった生徒が10年で50倍になり、しかし昭和60年代の少子化のあおりで教室を閉じ、次の目的の為、迷わず一部上場企業の「工作機械」会社へ就職しました。
 世界企業で、国際的な特許戦略スキルを磨くためです。

 毎年、無試験で特別昇進を繰り返し(自慢と思わないでください)一刻も早く全世界を相手にする「法知識と経験」を積みたかったからです。

 やがて管理職となり部下も育ち始めたある日、またも…
 またも事件が勃発しました。
 …私に懲戒解雇申請が出されたのです。
 申請を出したのは、私の直属の上司でした。
 早く早くと目的を急いだ私は、上司の気持ちを考えている暇はありませんでした。
 あまりに早い昇進が、直属の部門長にとって脅威になっていたのです。でも私は上司が好きでした。その座を狙おう等とは一度も思ったことがありません。
 でも、社長や専務からダイレクトにお呼びがかかるようになった私の存在は、おそらくサラリーマンである上司から見ると、自分の座が危ういと…そう見えてしまったのだと思います。
 懲戒解雇の容疑は、私がエクボ株式会社を既に設立していたので、会社の財産をこいつは盗んでいるに違いないというものでした。

 結局私は、U社長が「清水はそんなことはしない!」と懲戒委員会を一蹴したことで懲戒免職を免れました。今でもU社長には感謝しています。
 ただ、私はこの判定に不満な上司から、部下をすべて取り上げられ、窓際族にされ、給与の昇給は完全停止し一円も上がることがなくなりました。折しも母親の介護が発生し、時よく発令された希望退職募集の「第1番申請者」として私は、同社を後にしました。

 その翌年、私はエクボ株式会社の社長に就任しました。サラリーマン時代に亡くなった家内に「登記上の社長」を任せていましたが、晴れて本当の代表取締役となったのです。

 「人の心には希望の種が必要だ」心底思いました。

 20代、そして30代、40代…何度も人の心の闇を経験しました。でもそれは悪意というより不安がなせることなのです。…いつか、希望を与える法人を興そう。そう思ったのです。